2015年9月10日

【田村兄インタビュー/前編】

リストラ、どん底ニートからゲーム業界へ。僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由

リストラ、どん底ニートからゲーム業界へ。僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由


皆さんは、人生で何もかも上手くいかなくなったという経験をお持ちでしょうか。

例えば仕事で大きなミスをしてしまったり、大好きな人にフラれたり─。
どんな人も生きていれば、つらいことや悲しい出来事に直面することがあるでしょう。
しかし、なかにはそうした苦境や窮地を乗り越えることによって、
大きな成長を遂げる人も存在します。

今回は、人気企業へゲームプランナーとして参画している田村幸弘さんにインタビュー。
幸弘さんは現在、弊社でマーケティング担当を務めている田村貴弘くんのお兄さんです。
社員からは、田村兄(たむら あに)という呼び名で慕われています。

ニート、パチスロ漬けの暮らしから、ゲームプランナーへと華麗なる転身を遂げた幸弘さん。
その真実のストーリーは、人生の壁に立ち向かうためのヒントと勇気を与えてくれるものでした。

 

車が好きで、就活に苦戦しながらもカーナビのデバッグ担当に

─新卒では、どんな企業に就職をされたんですか。

田村:大学を出て、システムの開発会社に入社しました。その会社ではエンジニアとして、自動車の車載機器メーカーに常駐して、カーナビゲーションのデバッグを担当していました。国内OEMから欧米向けの製品まで、幅広く扱っていました。

─もともと、自動車関係の仕事に興味をお持ちだったんですか。

田村:家族が車を好きだったので、影響を受けていましたね。親父は外車に乗っていましたし、弟も車で旅をしていました。僕も国産車を愛用していて、自動車関係の仕事に憧れを抱いていました。

大学で情報系の学部に通っていたので、何かしら自動車に関わる仕事でコードを書きたいと考え、就職活動を行っていましたが、なかなか上手くいかなくて。たくさんの企業の就職試験に落ちました。それでも何とか車載機器メーカーをクライアントに持つシステムの開発会社から内定をもらうことができて、自動車に関わる仕事ができるとよろこんでいました。

─カーナビのデバッグとは、具体的にどんなことをするのでしょう。

田村:派遣先の企業では品質デバッグのチームに属していました。そこではカーナビに電気負荷をかけたり、走行テストを行ったりしていました。

例えば、自動車にキーを入れて回したときには、電気を使います。電気負荷のテストでは、そのときに発生するアンペアと同じ電気をカーナビに流して、ショートしている部分はないか、液晶で暗くなっている部分はないか、などというチェックをしていました。一方の走行テストでは、実際に自動車を運転しながらカーナビが正しい道を表示しているのか、GPSから外れていないか、などということを確認していました。

ひたすらカーナビと向き合う日々でしたが、次々に新しいことを学んでいけるので、楽しかったです。結構、やりがいも感じていましたね。


 

忍び寄るリーマンショックの影、そしてリストラ

─どのくらいの期間、そのお仕事をされていたのでしょうか。

田村:1年余りです。入社後、半年ぐらいでリーマンショックが起こりました。派遣先の企業が大手自動車メーカーの下請けをしていたので、大きなダメージを受けたようでした。その影響でじわじわと人件費がカットされていき、社外から派遣されてきていたエンジニアも、どんどん契約を打ち切られていきました。僕もそのなかの一人でした。

仕方なく自社に戻ったところ、自分と同じように次の案件を待っているエンジニアが社内にあふれていました。当時、自社では多くの自動車関連企業を顧客に持っていて、そこに派遣されていたエンジニアがごっそり戻ってきていたんです。

しばらくすると、会社は見通しが立たないまま多くのエンジニアをキープしておくほど余裕はないと判断したんでしょう。多数の希望退職者を募りました。そしてリストラが始まり、自分自身も退職することになりました。

─それは、つらかったでしょうね。

田村:正直、応えましたね。それなりに苦労して入った会社だったし、決してやりたい事のど真ん中ではなかったけど、好きな自動車に関係する仕事でした。僕にとっては、社会人としての経験を積んだり、スキルを磨いたりする大切な場所だった。それを社会人になってわずか1年のタイミングで失ってしまったんです。…ショックでした。

─経済的にもつらいですよね。

田村:収入が途絶えてしまい、貯金もほとんどありませんでした。だけど、家賃は会社からの補助が無くなった分、ずっと高くなりました。アパートを出て行くしかなかったのですが、次に住む場所のあてもありませんでした。

就職活動をしようにも、社会人になって1年しか経っていないから、スキルも実績もない。リーマンショックの真っ只中だから、道のりが険しいことは明らかで。

どうしようもないと思いました。ついこの間まで新卒で入社した会社で忙しく働いていて、お給料もちゃんともらえていたのに、突然、仕事もお金も住む場所すら失ってしまう。日本は豊かな国なのに、人はこんなにも簡単に生活が立ち行かなくなるのかと驚きました。すぐには自分が置かれている状況を理解できなかったし、自分が無力な人間だということを、痛いほどに感じました。



そんな時、地元仙台から親父が出張で上京してきていて、食事をしました。そこで会社を退職したこと、もう少しがんばって東京で仕事を探してみようと考えていることなどを話しました。すると親父に「東京で仕事を探すにも、金がかかるだろう。いったん帰ってこい」と言われたんです。情けなさと申し訳なさがこみ上げてくるなか、実家に戻りました。
 

地元仙台の居酒屋で働きながら、再就職先を探す日々


田村:実家に帰ると職業訓練校に通いながら、また就職活動を始めました。最初は、高望みをしなければ失業手当が出ているうちに、どこかに再就職先が決まるだろうと踏んでいました。でも、甘かったですね。

社会人経験が一年しかない僕を、リーマンショックの逆風が吹くなかで正社員として採用してくれる企業はどこにもありませんでした。そのうち失業手当の給付期間も終ってしまい、実家の両親に小遣いをねだる訳にもいかず、アルバイトを始めました。

─どんなアルバイトだったんですか。

田村:学生時代にお世話になっていた居酒屋さんの厨房で、働いていました。ちょうど人を探しているところだったみたいで、料理長が「就職先が見つかるまでうちで働いてくれたらいいよ」と声をかけてくれたんです。当時、正社員として就職先を探していたので、求めていたキャリアではなかったのですが、とにかくお金が無かったので、再びお世話になることにしました。

─どれくらいのペースで働いていたのですか。

田村:最初は就職活動もあるし、頻繁にはアルバイトに入らないつもりでいたのですが、結局は生活のために週4~5日、長いときには昼すぎから夜遅くまで働いていました。

お陰でいわゆる居酒屋メニューはひと通り作れるようになりました。揚げ物やパスタ、ピザなんかも焼いていましたね。ピザは小麦粉を掛け合わせて、ドライイーストを入れて、生地から作っていました。それがお客さんから褒められたりすると、うれしいんですよ。パスタも生地から作りたいと料理長にお願いしたら、日持ちしないからダメだと断られたりして(笑)

─フリーター生活に不安はなかったですか。

田村:最初は、この先どうなってしまうんだろうと不安でした。新卒で働いていた頃に比べて給料も少ないし、「このままではいけない。早く就職先を決めたい」と焦りを感じていました。

でも、人間は怖い生き物で、どんなに環境が変わっても慣れてしまうんですよね。アルバイトを始めて3ヶ月くらい経ったころから、フリーター生活が少しずつ心地よくなってきました。正社員時代のように仕事がしんどい訳でもないし、上司の目を気にする必要もない。実家にちょこっとお金を入れれば、食費も浮くし、家賃も水道光熱費も払わなくていい。

休みも土日ではないけど取れるし、自由な時間もある。楽しく仕事ができているから、良いような気がしてきました。なんならそのままアルバイト先のお店で正社員になり、チェーン店を渡り歩きながら生活するのもいいかも知れないと思っていました。実際、アルバイトを始めて2年くらい経ったころに、正社員にならないかと誘っていただいたこともありました。

─でも、そのお店で正社員になることはなかった。

田村:当時まだ25、6歳だったので、フリーター生活に流されながらも、漠然と夢を追いたいという気持ちは残っていたんですね。でも、何かやりたいことが見つかっている訳ではありませんでした。自分がいる場所はここではない、もっと違うところにあるはずだと感じていました。だから、せっかくいただいた正社員のお話だったんですが、お断りしました。



─その後は、どうされていたんですか。

田村:もう一度奮起して、しばらく就職活動に力を入れることにしました。東京で就職したいからと、居酒屋のアルバイトも辞めさせてもらいました。戻れる場所があると、自分にもアルバイト先にも甘えてしまうような気がしたからです。

正直、またつらい就職活動をするのかと思うと、心も体も鉛のように重かったです。でも自分を奮い立たせて、ひたすら就職情報サイトを見ながらたくさんの企業に書類を送ったり、ハローワークに通ったりしました。そして、書類選考を通過したら、東京にある弟の家や友達の家に寝泊りしながら、面接を受けるという生活を送っていました。

受ける企業の業界なんて、何でも良かったです。全然興味がない仕事の面接でも、「ここに入れば、もう一度会社員として働けるんだ」と半ば自分に暗示をかけるようにして、無理矢理モチベーションを上げて臨んでいました。

もう自分のやりたいことが何だったのか、自分がどういう人間だったのか、まったく分からなくなっていましたね。どこでもいいから企業に拾ってもらいたい一心で、就職活動を続けました。でも結果、面接にこぎつけられたのは数えるほど。どの企業からも、内定はもらえませんでした。

それで心が折れました。もう何もやる気が湧いてこなくなりました。就職活動も働くことも、何かを目指すことも、すべて辞めてしまいました。フリーターから、ニートになりました。
 

朝から晩までパチスロ漬け。すべてを諦めていたニート生活

田村:楽な生き方を一度味わってしまったからなのか、あとはどんどん堕ちていくだけでした。誰に指示されることもない生活。朝、好きな時間まで眠り、寝巻きのままパチンコ店にいく。タバコの煙と騒音に身をゆだねて、片手でスマホのゲームをいじりながら、もう一方の手でスロット台に並ぶボタンを押していく。ただひたすら、一日中パチスロを打っていましたね。

幸いにも借金は作らず、下手に勝てたりするものだから「俺、勝てるし、余裕でしょ」なんて勘違いをして、どんどんハマッていきました。朝からパチンコ屋の前に並ぶのが習慣になり、パチスロで儲けたお金でときどき豪遊する、堕落した日々を過ごしていました。

─ご両親は何もおっしゃらなかったですか。

田村:何も言わなかったですね。「もっと就職活動をがんばりなさいよ」とか「働きなさいよ」とか、当時の僕に言いたいことなんて腐るほどあったはず。でも、親父もおふくろも、何も言いませんでした。

─そんな生活が変わっていったきっかけは何だったのでしょう。

田村:親友の存在です。僕には、消防士をしている親友がいます。僕が仙台に戻って、アルバイトをしたり、パチスロ三昧の暮らしを送っていた3年の間に、彼は消防士になって結婚をして、父親になっていました。

彼は順調にキャリアを積んで、自分の職業に誇りを持っていました。家に帰れば素敵な奥さんと、自分のことを「パパ、パパ」と呼んでくれる可愛い子どもが待っている。その様子を見ていたら、俺は本当にこんな暮らしを続けていていいのだろうか、と考えるようになりました。



親友は思い描いたビジョンを一つひとつ叶えているのに、僕にはなんの夢もない。ずっとパチスロを打って暮らしていくわけにはいかないし、このままだときっとゴミみたいな人生を送っていくことになる。だから、本当に必死にならないとまずい。本気でがんばって、30歳になる前に少しでも仕事の実績を作らないと、何者にもなれないと強く思いました。
 

きっかけは母のひと言。僕は無課金を貫くと宣言した、アプリボット社との商談


─レバレジーズ(現レバテック)から案件を提案できたのは、ちょうどこの頃だったんですね。

田村:はい。ちょうどその頃、おふくろから弟に、「あんたが勤めている会社は、エンジニアに案件を紹介したりしているんでしょ。幸弘に紹介できる案件はないの?」と連絡が入ったらしいんです。

それで弟にまた仕事を探していることを伝えたら、「お兄ちゃんはゲームが好きだよね。もしよかったら一回カウンセリングを受けにきたら?」と言われて、渋谷の本社でカウンセリングを受けました。過去に異業種でデバッグの経験があることと、今まで人よりもゲームをやってきた経験から、ゲームのデバッグ案件をいくつか提案されました。

─ゲームはどのくらいお好きだったんですか。

田村:そんなに大したことはないです。幼い頃、周りの友達と同じようにファミコンをやり始めて、暇なときにはゲーム機で遊んでいました。唯一自慢できるのは、中学生のときに地元仙台で開かれたNINTENDO64の「マリオテニス」の大会で、優勝したことぐらいですね。東京で開かれた全国大会では、5位に入りました。

大人になってからは、PS3でRTA(リアルタイムアタック)に参加して、その様子をしょっちゅうYouTubeにアップしていました。でも、ある日ハードが壊れてしまって、そこからスマホゲームをやるようになりました。

スマホゲームは家庭用ゲームと比べて手軽だし、ユーザー同士でコミュニケーションできることが楽しくて。仙台に戻ってからは、モバゲーとかグリーに入っているゲームをよくやっていました。

─十分すごいと思いますよ(笑)ちなみに当時、業務委託という契約形態については、ご存知でしたか。

田村:いいえ、全然知りませんでした。弟から「業務委託の案件なんだけど大丈夫?」と聞かれて、そもそも業務委託とは何か?フリーランスとは何か?を調べるところから始めました。すると、個人事業主になるということや、実力があれば案件を選べること、会社員時代のように有給や社会保障を企業が用意してくれるわけではない、ということなどが分かりました。

そのうち、なんとなく町の八百屋さんの仕事を0.8倍したくらいの働き方なんだろうとイメージするようになりました。働いた分だけ実績やお金が手に入るけれど、SES※で契約するから、自分で案件を探す必要はない。

やりがいがあって面白そうだと思ったし、何より人生の谷底にいた自分に降ってきたチャンスだと感じました。



※ SES(システムエンジニアリングサービス)…ソフトウェアやシステムの開発・保守・運用における委託契約の一種であり、特定の業務への技術者の技術力を提供する契約。

─何社と商談をされたのでしょうか。

田村:1社のみです。スマホアプリを手がけるアプリボット社で、フリーランスとしてゲームのデバッグを行う案件でした。

夢中だったので、商談の場で何を話したのか、はっきりとは覚えていません。ただ、それまでにやったゲームのタイトルをすべて書き出し、一覧にしたものを提出して、プレイの内容、自分がデバックにおいてできることを説明したのを覚えています。弟に聞いたところでは、プレイしたことのあるゲームの数が結構多かったみたいです。また、SNSや2chを見てユーザーの声をチェックしていたので、それについてお話したりしました。

機能の改善についても、提案しました。例えば、掲示板の並びが作り手主導の順番になっているから、ソート機能を入れてもっとユーザーフレンドリーにしたほうがいいとか。ターゲットユーザーの年齢から見て、テキストに漢字が多いから減らしたほうがいいとか。さらにトレードが主流の時代だったので、当時、トレードが荒れていた状態を運用側としてどう考えているのか、と尋ねたりもしました。

しかもその場で、「僕、無課金を永久に貫きたいと思っています。ゲーム会社は無課金のユーザーにどうやって課金させるかが課題だと思いますが、僕はあまり課金したことがないのでわかりません!」って言い切ったんですよね(笑)

─ゲーム案件の商談の場で永久に無課金を貫きたいとはなかなかパンチの効いたメッセージですね(笑)

田村:もうこの案件への参画はできないだろうと思いました。ちょうどその週末に東京でコミケが開かれていたので、後はもうそれを楽しんで仙台に戻ろうと考えていました。そして、また就職活動をがんばろうと決めていました。



すると商談から3時間後くらいに、弟から電話がかかってきました。その晩一緒にご飯を食べる約束をしていたので「もう仕事が終ったの?ひょっとして早く一杯やりたくて早退したの?」なんて話しかけていたら、「違う違う、お兄ちゃんと契約させてほしいんだ!」と弟が言うんですよね。

最初、何のことを話しているのか分からなくて、何回か聞き直していくうちに、自分がレバレジーズ(現レバテック)と契約すればアプリボット社のプロジェクトに参画できるということが理解できました。

再び動き出した人生の歯車。でもにわかには信じられなくて…

田村:ただすぐには信じられなかったですね。デバッガーとして力になれる部分はあるとも思っていましたが、ほんのちょっと前までニートのプータローだったんですよ。朝パチスロ屋の前に並んでいたんですよ。

そんな僕がゲームを作る会社に参画できるなんて、嘘みたいでした。しばらくボーっとしながら渋谷の街を歩きました。間もなくして現れた弟にも「おめでとう!」と声をかけられました。

そして、なんだかすごく弟が嬉しそうにしている様子を見ているうちに、ようやく「これは夢じゃない、現実なんだ…」と少しずつ実感が沸いてきました。

(後編へ続く)



田村 幸弘 ─Yukihiro Tamura─
1986年生まれ。東北工業大学卒業後、システム開発会社に入社。
カーナビゲーションのデバッグ、品質管理を担当する。
2009年から3年間の地元仙台での飲食店勤務を経て、
2012年8月アプリボット社でソーシャルゲームの開発、運用に従事。
2015年3月より人気ゲーム制作会社にゲームプランナーとして参画中。

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