業界未経験から2年で人気企業のゲームプランナーに。僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由

業界未経験から2年で人気企業のゲームプランナーに。僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由

ゲームプランナー田村 幸弘さんの再起のストーリー。前編では、ニート生活から紆余曲折を経てゲーム会社への参画が決まるまでの日々について、お話を伺いました。

後編では、幸弘さんが社会復帰を果たした後、いかにして人気企業へゲームプランナーとして参画するまでになったのか、キャリアの変遷と仕事・家族への想いなどを中心に紹介します。幸弘さんが“シンデレラボーイ”と呼ばれるようになった確かな理由が、そこにはありました。

前編はこちら:リストラ、どん底ニートからゲーム業界へ。僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由

目次

人とうまく話せるのかすら不安だった、ゲームデバッガーとしての船出


─アプリボット社への参画が決まって、再び企業と接することに不安はなかったですか。

田村:もう不安だらけでしたよ。そもそも人ときちんと会話をできるのかすら、自信がありませんでした。直前まで一日のうちほとんどの時間を、スロットマシーンやスマートフォンと向き合って過ごしていて、会話らしい会話といえば、ゲームのチャットぐらいでしたから。

前の会社を辞めてからすでに3年ほどが経過していたので、感覚がよみがえってくるのかどうかがまったく分かりませんでした。小さいことでもいろいろ考えると、心配でたまらなかったです。参画まで何度も自分に「任された作業をがむしゃらにやっていくしかないんだ」と言い聞かせていました。

単純作業だと感じなかった、ゲームデバッガーの作業


─現場に慣れるのに、時間はかかりましたか。

田村:いいえ。現場の雰囲気はとっても温かくて、本当に家族みたいでした。年齢も僕より一つ、二つ上の方が多くて、よくご飯に誘ってくださいました。だから、初日こそ不安と緊張でガチガチの状態でしたが、すぐにリラックスして作業をすることができるようになりました。そのチームで一緒だった方とは、今でも遊びに行ったりします。

─ゲームのデバッグとカーナビのデバッグ、共通点はありましたか。

田村:カーナビのデバッグでは、品質管理の部分を担当していました。それもゲームと同じくユーザーの手に届く前のテスト作業だったので、テストケースや仕様書の作成では、似た部分が多かったですね。ソーシャルゲームをポチポチ試しているのと、カーナビをポチポチ試しているのとでは、近い感覚がありました。

ただ、両者に完成度の違いはありました。最初にいた自動車業界は、ゲーム業界に比べて歴史が長く、成熟していたので、その分テストケースもしっかりでき上がっていました。一方、当時のアプリボット社では、テストケースを作るところからのスタートも珍しくありませんでした。そのため改善の余地もたくさんあって、とても自由に作業ができました。

─デバッグと聞くと、単純作業だというイメージがあるんですが、つらくはなかったですか。

田村:いいえ、まったく。ババッとデバッグして、手早くそれをつぶして。その作業が実装されるゲームに活きると分かっていたから、何もつらいとは思わなかったですね。

それに、デバック中にガチャを回せることがあるのですが、僕自身初めての経験だったので、楽しみながら作業することが出来ました。イベントについても、自分がテストプレイを一番最初にできるユーザーだと思えば、強いデッキで勢いよく回せるのは快感でした。

─どんなときに面白さを感じましたか。

田村:デバッカーの仕事というのは不具合を見つけて終わりではありません。改善策についても考える必要があります。自分なりに考えた、「ユーザビリティーの観点からはこうした方がいい」という案が形になっていく様子が、目に見えてわかったりします。アプリボット社では、ユーザビリティーや再現性を向上させるために、本当に様々なことを考えて実行していくことができました。そこが面白かったですね

デバッガーからプランナーへ。必死だった初めての案件


─数ヶ月間デバッガーをされた後、プランニングを担当されるようになったんですよね。

はい。プランナーとしての初めての案件では、ただもう毎日がむしゃらに画像の発注をしたり、仕様書を作成したりしていました。今のように、何かのKPIを追うとか、数字を見るなどということはできていなかったですね。

─スマホゲームのプランナーとは、具体的にどういうことをするんですか。

田村:ゼロからゲームを生み出して、ユーザーの手元に届くまでを見届ける役目です。例えば新しいゲームを考えるときには、プランナーみんなが集まって話し合い、どういうゲームを作っていくのか、方向性を決めて企画に落とし込んでいきます。「こんなゲームなら会社に合っていると思う」「ユーザーは今、こういう体験をゲームに求めているはずだ」というものを、企画書にまとめていきます。

そしてゲームの詳細なルールやステータス、オブジェクトのリスト、遷移図、画面レイアウトなど、ゲームを作るうえで設計図となる仕様書を作ります。内容が固まったら、スケジュールや予算、ステージの設定について詰め、実装作業に入っていきます。実装されたら内容を確認し、ブラッシュアップしていくことも大切な役割です。

─ゲームプランナーの魅力とは、何だと思いますか。

田村:やっぱり、直接的に売上やユーザーの動きに関わることができるということですね。例えば新しいガチャを入れる時、投入を知らせた瞬間に、ユーザー数と課金率が大幅に跳ね上がるんです。

ユーザーはそのガチャを見たい!欲しい!と思って、引いてくれます。僕の作ったガチャのために、すぐにアクションを起こして、お金を使ってくれるわけです。それは、めちゃくちゃ楽しいですよ。リリース後の数字を見て、「たった1時間で、ユーザーはこんなにガチャを回してくれたのか!」とうれしくてたまらなくなるときがあります。

もちろん、お金のことだけに限りません。例えば新しいイベントを開始してプッシュを打った後、それまで50%。40%と下がってきていたイベント継続率が、3日後には70%、80%と上がっていったりします。それは、リリースから3日経っても、イベントを面白いと感じてくれているユーザーがたくさんいるということです。そんなときはやっぱり、作って良かったと思いますね

デバッガーは“ディフェンダー”、プランナーは“フォワード”

─デバッガーとプランナーとのもっとも大きな違いは何でしょうか。

田村:「実装できるか、できないか」ですね。デバッガーはゲームを守る側、例えばサッカーでいうところのディフェンダーのポジションだと思います。プランナーやエンジニア、みんなが企画して作ってくれたものを防波堤として守る。そして、いかに品質を維持して世の中に楽しい状態で送り出せるのかが問われます。

一方のプランナーは、フォワードです。デバッガーとは逆で、自分が考えたことを形にするために動く。デバッガーとプランナーでは、まるで楽しさの質が違いますね。

気付けば選択肢が4倍に。新天地として選んだのは人気のゲーム制作会社


─その後、アプリボット社でさまざまな案件を経験され、今回また違う人気のゲーム制作会社に参画されることになったんですよね。その会社をあわせて、合計、何社の現場へ参画できるというお話があったのでしょうか。

田村:4社です。どれも魅力的な内容だったのでかなり迷いましたが、決め手になった要素は幾つかあります。まず、次に参画するゲーム制作会社には、実績があるということ。同社は、Apple Storeランキングの上位に入るようなメジャーな作品を、複数リリースしています。そこで自分がどこまで勝負し、成長できるのか、試してみたいと思わせてくれる何かがあったということ。そして、スタッフの方がみんなイキイキと仕事をされていたことも大きかったですね。

─前回は参画できる企業が1社だったのに対して、今回は4社から選択できるようになったわけですね。

田村:本当にありがたい限りです。実は前回と同様に商談を上手く進めることができるのか?という不安が何度も頭をよぎったんですよ。

お話したとおり、僕は新卒で入社した企業からたった1年で退職することになり、その後しばらく人生が上手くいかなくて苦しみました。だからどこかでまた、腐った生活に戻ってしまうんじゃないか、と感じていました。

でも今回、うちの弟が言ってくれたんです。「おめでとう。4社から声をかけてもらう実績を作ったのはお兄ちゃんだよ。2年半よくがんばったね」って。そのとき初めて、少しだけラクになりました。もう怯える必要はない、顔を上げて歩いていいんだ、と言われた気がしました。

自分で言うのも何なんですけど、うちは“デキない兄とデキる弟”の兄弟なんですよ。弟はどう思っているか分からないですが、アプリボット社に参画するきっかけを作ってくれたのは弟です。そして、僕が地元で3年間生きていられたのも、また東京で仕事をできているのも、家族に守られていたからです。家族がいなかったら、今の僕はありません。

僕がシンデレラボーイと呼ばれる理由


─ニートからゲームプランナーという人気の職種へ華麗な転身を遂げた田村さんを、シンデレラボーイと呼ぶ人もいるそうですね。

田村:はい、中には。ゲーム業界に入りたくても入れない方は、たくさんいらっしゃいます。専門学校や大学できちんとゲーム制作を学んでいた方でも、卒業後にはゲーム以外の業界で働いているケースも多いです。僕はとても幸運でした。

異業種でデバッグの経験があったことと、ゲームの知識があったこと、たまたま弟がエージェントをしていたこと、それらの偶然が重なり、フリーランスとしてゲーム業界に入ることができました。そして、アプリボット社のプロジェクトメンバーと2年半の間、関わることができたから、今のゲームプランナーとしての自分があると思っています。僕は周りの人に、タイミングに、非常に恵まれていると言えます。

─どうしたら、田村さんのようなシンデレラボーイになれますか。

田村:そうですね。決してえらそうなことを言える立場ではないですが、経験上ひとつだけ分かっていることがあります。それは、“ひとつラッキーを拾ったら、逃さないようにすること”です。僕は、ゲーム業界に入れてもらったからには、「どんなことでもするから、どんなことでも全部吸収してやる」というつもりでやってきました。そのくらいの気持ちを持たないと、次にはつながりません。

例えばアプリボット社では、デバッガーとして結果を残したからこそ、プランナーとして参画することになりました。その後、プランナーとして初めて携わった案件でも、がむしゃらに画像の発注をしたり、仕様書を作成したりしたからこそ、次の案件、またその次の案件への参画につながりました。

そして、アプリボット社での2年半があったからこそ、次のゲーム制作会社への参画が叶いました。そうした一つひとつの成果の積み重ねなんだと思います。

ラッキーは、おそらく誰にでも降ってくるものなんですよね。ラッキーをたくさん拾おうとするのではなく、まずはひとつ目に拾ったラッキーを精一杯大切にして、次に活かすこと。世の中のシンデレラボーイやシンデレラガールと呼ばれる人たちは、きっとそれを上手にできた人たちのことを言うのではないでしょうか。

フリーランスは、ゲーム業界に携わるための大切な道

─田村さんは業務委託という働き方で経験を積んでこられました。フリーランスとしてゲーム業界で働くことについて、どのようにお考えですか。

田村:正社員として就職することが、簡単ではない時代。未経験者やフリーターがゲーム業界で正社員の職に就けるケースは、そう多くはないでしょう。そんななか、もし僕のようにSES※でフリーランスとして参画できれば、好きなゲームの業界に飛び込めるわけです。

日本では、まだ意外にフリーランスという働き方が浸透していないですよね。実際、僕も弟に言われるまで知らなかったですし、地元でも「フリーランスってどういう仕事?」と聞かれたりします。案件を紹介されるまでに何度か就職活動をしましたが、そのときは正社員や契約社員向けの転職サイトを見たり、ハローワークに通ったり、それでもダメなら派遣の仕事を探したりしていました。

もし就職活動が上手くいかなかったり、正社員の職を失ってしまったとしても、ゲーム業界への転職をあきらめる必要はありません。もう1つの道としてフリーランスとしてゲームの開発に携わっていく方法があるということも、知ってほしいですね。フリーランスで働くという選択肢を視野に入れることで、ゲーム業界に関われる可能性が大きく広がります。

※ SES(システムエンジニアリングサービス)…ソフトウェアやシステムの開発・保守・運用における委託契約の一種であり、特定の業務への技術者の技術力を提供する契約。

まずはディレクターに。いずれはプロデューサーとしてゲームを生み出す立場に

─これからは新しい舞台に移られるわけですが、今後、どんなゲームを作っていきたいですか。

田村:最近のソーシャルゲームは、昔のように比較的単純な内容ではなく、多機能でいわゆるゲームらしいゲームが増えてきたと感じています。そんななか僕は、ユーザーの自由度が高く、楽しんで遊んでもらえる、ネイティブらしいゲームアプリを作ってみたいですね。

─ネイティブらしいというと?

田村:例えばジャイロが入っていて、端末を傾けたらキャラクターやツールが動いたり、並んでいるブロックをなぞるとクリアできる、なんていう仕掛けもいい。Wiiのスティックを振るとテニスのゲームでボールを打てるように、スマートフォンを振り下ろすと敵を切り倒せるなんていう演出も面白いかも知れません。どちらかというと視覚より感覚で、ユーザーをわくわくさせるようなギミックを使ったタイトルを作りたいですね。

─ゲームクリエイターとして今後、どのように成長していきたいですか。

田村:まずはディレクターになりたいですね。そして将来的にはプロデューサーとして、高い視点から総合的にゲームを生み出していく立場になりたいと思います。ゲームについてはもちろん、もっと対人スキルやマネジメントのスキルを磨いて、ゲーム以外の部分でもバリューを発揮できる人材を目指したいですね。

─その過程でつまずいたとしたても、きっともう大丈夫ですね。

田村:はい。昔どうやって自分が立ち直ったのか、誰が支えてくれているのかを、思い出すようにします。

─もし目の前にラッキーが現れたら?

田村:掴んで離しません(笑)。 



田村 幸弘 ─Yukihiro Tamura─
1986年生まれ。東北工業大学卒業後、システム開発会社に入社。
カーナビゲーションのデバッグ、品質管理を担当する。
2009年から3年間の地元仙台での飲食店勤務を経て、
2012年8月アプリボット社でソーシャルゲームの開発、運用に従事。
2015年3月より人気ゲーム制作会社にゲームプランナーとして参画中。

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